そばの雑学

      生蕎麦               そば店の看板に「生蕎麦」と書かれているが、これは「きそば」と読み、本来の意味は、つなきをまったく使わないでそば粉だけで打ったそば(生粉打ちそば)である。なぜこのような言葉が生まれたのかと いうと、江戸時代中期以降に、小麦粉をつなぎとして使うようになる。当初は麺のつながりをよくするために用いられていた小麦粉の量が徐々に増えていき、そばの品質の低下をまねき二八そばが粗悪なそばの代名詞になった為に、高級店が格の違いを強調するために「生蕎麦」や「手打ち」を看板に掲げるようになったのである。しかし、この時代には製麺機が無かったので、どちらも手打ちであった。ところが、幕末頃になると、二八そばまでもが「手打ち」や「御膳生蕎麦」を看板にするようになった為、その区別が なくなったしまった。現在では、「生蕎麦」や「御膳」と看板、暖簾に書かれているのは、そのなごりであって生粉打ちそばの意味ではない                                                  
     そば湯 そば湯とは、そばを茹で上げたお湯のことで、これにはそばを打つときに用いられるうち粉が溶け込んでいたり、そばを茄でている時にそばから抜け落ちてしまう栄養分が十分に含まれている。そのために、そば湯を飲むのには、ただつゆをうすめて飲むと いう事のほかに、そばから溶け出た栄養分を補うと いう目的も含まれているのである。
      抜き 抜きには、二つの意味があり、ひとつはそばの殻を取り除いたそばの実。通称、丸抜きともいう。そして、もうひとつは種物のそばを取り除いたものである。つまり、そばを種物の中から抜いてあるので、汁物として食するのである。例えば、かしわ抜き、鴨抜き、天抜き等である。
       湯通し 湯通しとは、茹で上げ水洗いし終わったそばを温かいそばで出すために、そばをお湯の中で温めることである。
      南蛮 南蛮とは、ネギのことである。これは、古代中国の考え方が影響し、タイ、ルソン、ジャワなどの南様の国々のことやその地経由の人や物のことを江戸時代に南蛮と呼んでいた。それが なぜネギになったのかは定かではないが、かの地を経由してきた人が好んでネギを食していたために、ネギを入れた料理も指すようになったと思われる。
     三たて そばの三たてとは、そばが美味しい条件を表した言葉で「挽きたて」「打ちたて」「茄でたて」の三つのたてからきている。「挽きたて」とはそば粉を製粉したすぐの状態の意味で、「打ちたて」とはそばを打ち終わった状態で、「茹でたて」とはそばを茹で上げてすばやく水切りした状態のことである。 なぜそれだけ時間にこだわるかというと、そばとは時間経過と共に鮮度の劣化が激しいからである。ただし、「打ちたて」の場合だけ、包丁で切った後すぐに茹でてはいけない。切りたてのそばは、沈まずに浮いてしまうのでうまく茹であがらないからである。
水ごね・湯ごね 水ごね(水ねり)とは、そばを水を用いて打つ方法で、つなぎである小麦粉のたんぱく成分を利用してそば粉をつなぐのである。小麦粉のたんぱく成分は、水が加わることによりグルテンを形成して強い粘性を発揮するが、お湯が加わるとすぐに凝固してしまい粘性を発揮できない。そのため、グルテンを利用してそばを打つ場合には水ごねを用いる。
湯ごね(湯ねり)とは、そばをお湯を用いて打つ方法で、そば粉のでんぷん成分を利用してそば粉をつなぐのである。そば粉のでんぷん成分は、熱湯を加えることにより糊化して粘性を発揮する。これは 、でんぶんの水では糊化しないが熱湯ではすぐに糊化してしまう性質である。この性質は、葛粉や片栗粉にも共通している。この手法は、更科そばや変わりそばを打つときに多く用いられる。
      夏そば 夏そばとは、4月上旬から6月下旬にかけて種を蒔いて、6月下旬から8月上旬にかけて収穫されるそばのことである。夏そばは、地方によっては旧盆に振舞うために栽培されていた。そして、このそばは一般的に温度への感応性が大きいものが多い。ただ、収穫量としては少ない。
      秋そば 秋そばとは、7月上旬から9月上旬にかけて種を蒔いて、9月中旬から11月中旬にかけて収穫されるそばのことである。秋そばは夏そばに比べて色、味、香りのいずれも優れているために夏そばよりも好まれている。また、新そばと一般的に言われるものは、秋そばの新そばの ことである。
        返し 返しとは、醤油と砂糖を混ぜ合わせたものである。返しを寝かせるのには、醤油の劣化をおさえたり、醤油をまろやかにしたりする目的がある。また、返しには、製法の違いによって「本返し」「生返し」「半生返し」に区分できる。
「せいろ」と「ざる」の違い 江戸の元禄の頃からぶっかけそばが流行るにつれて、それと区別するため、汁につけて食べるそばを『もり』と呼ぶようになりました。これはそばを高く盛りあげる形から生まれた呼び名ですが、その盛りつける器から『せいろ』『皿そば』など、器の名前が転じて呼ばれる場合もあります。
せいろとは蒸し器のことで蒸篭と書きます。昔は、そばを茹でずに蒸し器で蒸して食べたので『せいろ』と呼ばれました。『ざるそば』は江戸中期、深川洲崎にあった「伊勢屋」でそばを竹ざるに盛って出したのが始まりです。
引越そばを配るのはなぜ 引越そばは、現在では利用されることが少なくなりましたが、生活行事として残っています。引越の後、家主や差配、向こう三軒両隣に挨拶のため、そばを配る習慣は江戸末期から始まりました。それまでは、アズキ粥を重箱に入れて近所に配り、これを「家移りの粥」と呼んでいました。
江戸末期、二八そば(小麦粉をつなぎにつかうそば。そば粉100に小麦粉20の割合)が主流になると、そばが長く切れないことから、「おそばに末長く、細く長いおつきあいを」という縁起を担いで、そばが珍重され始めたのです。
なぜ、年越しにそばを食べるのでしょうか 大晦日にそばを食べる風習は、江戸中期には民間に根づいていたようです。しかし、なぜ大晦日にということになると、諸説入り乱れて、これといった定説はありません。では、年越しそばの由来の諸説をちょっとのぞいてみましょう。
●その1「細く長く」説
今でも一般に信じられているのがこの説です。そばのように細く長く生きて寿命を全うし、家運も末永く続くようにとの願いから、そばを食べるようになりました。

●その2、「切れやすい」説
切れやすいのがなぜいいのか。それは、そばのようにさっぱりと一年の苦労や災いと縁を切ろうとの願いから、そばを食べるようになったという説もあります